蛇の指輪

 夏の日差しは強い。
 寝転んだまま真っ白なそれに向けて手を伸ばすと、指の隙間から光が漏れた。


 真昼の学校の屋上。
 等間隔に並んだ焼けたタイルとよく似た生徒達の頭が遥か下の校庭でだるそうに揺れている。本来授業をうけているはずのこの時間は、のんびりと会話するにも、昼寝するにも向いていた。
「あー、クロおー」
 間延びした声が晴れきった空に吸い込まれる。どこまでも濃くて厚い、青。
「うっせえな、クロって呼ぶな」
 日陰で壁にもたれているクロが返す。陰の中にいても綺麗な短い黒髪が揺れる。自分の長くて褪せた髪に触ってみる。色を抜かれ焼かれた髪はごわつきながら手にまとわりついた。
 クロ、鉄(くろがね)。授業がめんどくさくなってきた入学したての春に、一眠りしようと屋上に来たとき、その屋上でのんびりと眠っていた。クロ。上靴の色を見る限りでは先輩らしかったが、どうでもよかったので気にしなかった。起きたとき、覗き込んでいた黒い目が綺麗だったのでクロ、と言ったらクロって呼ぶな、と返されたのでそのままあだ名になった。昔呼ばれた名前だと言っていた。クロ。
 クロは、自分の欲しかった全部を持っていた。黒い髪、黒い目、端正な顔、程よく筋肉のついた体、高い身長、包容力、強さ、年齢。全部がうらやましかった。そして強く憧れた。
 それ以来、授業時間に屋上に行くと、いつもクロはいた。昼寝をしていたり弁当を食べていたり、本を読んでいたり。時にはぼーっとしているだけの時もあったが、クロは必ずいた。隣に座ったり一緒に寝たり、少し離れたところで全く違うことをしていたり。だいたいの時間をクロと共有していた。
「なあ、明日は日食らしいぞ」
 ぼんやりとクロが話しかけてくる。半分独り言で、半分会話。それに反応してもしなくても構わない。思いついたから言っただけで、どちらでもいいのだ。
「日食、かあ」
 半分独り言のように返す。反応が返ってきても来なくても、どちらでもいい。
「日食ってさあ、蛇が太陽を食べちゃうから起こるらしいね」
 昔どこかで読んだ神話に、そう載っていた。クロのワイシャツがずり、と壁と擦れた音を出す。何をしようとあまり関係の無い事なので気にしない。
「どうして食べたんだろうな」
 静かな声が返ってくる。クロは例えるなら狼のようだ。しっとりとした真っ黒な毛並みを持った狼。月並みだなあ。もっと似合った表現があるのかも知れないけれど、教養の無い自分にはこれくらいしか表せない。
「わかんね。クロはどう思う?」
「俺は」
 その時、初めてクロの声の震えるのを聞いた気がする。いつも同じトーンで話していたクロの初めての、上擦り。
「蛇は太陽に憧れたんだ。好きだったんだ、と思う」
 早口でそれだけ言って、またずりりと音がした。頭だけ動かしてクロの方を見る。随分低い位置で肩を頭だけを壁にもたれさせていた。
「好きなのに食べちゃうんだ」
「好きだから食べるんだ」
 クロの返事が早くなる。いつものクロよりもずっと、反応的な。
「好きで好きで、届かないから食べるんだ。食べて、自分の物にしたかったんだ」
 それは喩え話の域を超えたものに思えた。あまりにもはっきりと言うものだから。クロはこんなにロマンチストだったっけな。
「蛇だって、太陽には持てない色々な魅力を持ってるのにね」
 そう返すと、クロは押し黙ってしまった。何か気に障るような事を言っただろうか。自分はクロじゃないから、わからなかった。
 しばらくそのまま黙っていると、下の方から生徒達の騒ぐ声が聞こえてきた。校舎に戻って行くのだとしたら、もうすぐチャイムがなるだろう。昼休みになれば他の生徒達もやってくる。影の方に移動するか違う場所を探すか、どちらにしても面倒だなあ。
「おい、これをやる」
 急に言った言葉の後に、カン、カン、と軽い金属と硬い物がぶつかる音がする。それは少しずつ感覚を狭めながらこちらへ近づいてきて、最終的に自分の頭にぶつかった。
「何、これ」
「見りゃわかるだろ。別に変な意味は無い、俺のお下がりだ。もう要らないから、やる」
 頭の辺りを探ると、何かが指にぶつかった。見えるところまで持ってくる。何の装飾もない、ただのシルバーリングだった。ただ、ところどころに小さな傷がついているから新しい物では無いだろう。この指輪について問おうとしたけれど、クロは頭痛がする、と言って屋上から出ていってしまった。クロが物をくれたのは初めてだった。自分の行き先を言ったのも。


 それから、屋上にクロは来なくなった。いつかまた来るんじゃないかと、ちょくちょく通ってはいた。ただたまたま同じ時間に同じ場所にいた、それだけだったのに。自分がこうやって誰かを待ったのも初めてだった。そのまま夏が終わり秋が来て、生徒達はみんな学ランかセーラー服を着るようになった。


「鉄って居たじゃん、1年の時からほとんど授業出てこないくせにテストだけよかった奴」
 そう話すのを聞いたのは、自分がもう屋上に行くこともほぼ無くなった冬の初めのことだった。きちんと授業に出るようになって、普通の生徒と同じように友達もできて、そうしてその友達と休み時間に飲み物を買いに来たときだった。横目で見やる。二年生の男子。クロと同じ学年。
「あいつ、学校にも来ないと思ってたら死んでたらしいぜー。」
「うわ、まじで?何で?」
「自殺って。原因知らねーけど、夏にはもう死んでたらしーよ。隣のクラスの奴が言ってたんだけど、クラス外の奴には言うなってお達しが来てたんだとさ」
「へー、変な奴だとは思ってたけどなー。別にいじめられたりとかそういうんじゃなかったんだろ?なんでだろうな」
 気づいたら、手にしていたはずの十円玉は地面を転がって自販機の下に潜り込んでいた。クロが、死んでしまった。そんなの。
 その日は、頭が痛いといって保健室に逃げた。あの日のクロと同じように。ただただ胸にもやもやと渦を巻いて、どうしようもなかった。一番奥のベッドに横たわって、ひたすらに揺れるカーテンを見ていた。季節外れの温い風に揺れるカーテンはうねうねと動き、まるで蛇のように見えた。
 好きだから食べる。太陽だって、きっと好きだから食べられたんじゃないか、と最近になって思うようになった。嫌いなら逃げればいい。太陽が蛇如きから逃げられないはずはない。太陽も蛇に憧れたから、ひとつになれるならいい、と思ったんだと。


「あ、その指輪」
 その声で目を覚ました。いつの間にか寝ていたらしい。声は保健医のものだった。寝ていたうちに制服からこぼれたらしい、首からチェーンで下げたクロの指輪を指して保健医は笑う。
「鉄君の、だね?」
 嫌な笑い方をして保健医は言う。今、こいつが嫌いだと思った。人を馬鹿にしたような笑い方。
「君だったか、その指輪をもらったのは」
 眉間に皺を寄せる自分を無視して保健医は喋り出す。ゆっくりとベッドの縁に座ったが、どけ、とは言えなかった。次の言葉を待つ。間違いなく自分の知らないクロを知っている。それだけがこいつを好き勝手にさせた。
「それね、鉄君が人からもらったんだって。いつも薬指にしてたよ、右手のね。どうしてつけてたんだろうね」
 薬指に指輪。それを見た覚えが無かった。気付かなかったのか、それともつけていなかったのか。もう確認する術は無い。
「夏だったかなあ。珍しくつけてない日があってね、どうしたの?って訊いたら、やった、だって。誰にあげたのかは教えてくれなかったんだけどね」
 そう言って、保健医はまた笑う。夏。いつもと違うクロ。あの日は。まさか。最後に見たクロが脳内をめぐる。
「いいこと教えてあげる。鉄君はね、指輪をあげた人の事を『太陽』だって言ってたよ。あんなに他人の事を話す鉄君、初めて見たよ」
 自分が太陽、だと。そんな筈はない。クロは自分に無いものをたくさん持っていた。クロの方が太陽じゃないか。クロがいたから、自分は。
 そうして初めて気づく。蛇は太陽に憧れた。太陽も蛇に。クロは何を思ってあの話をしたんだろうか。クロ。未だにクロは自分の欲しい物すべてを持った、憧れだ。黒い髪、黒い目、端正な顔、程よく筋肉のついた体、高い身長、包容力、強さ、年齢。クロ。それならどうして食べてくれなかったのか。クロ。
「じゃ、これから授業あるし、私は行くよ。君はまだ寝ていていいよ、誰か来たら寝たフリか私は授業に行ったと言っといてくれるかな」
 保健医はにっこりと笑うと、ゆっくりと立ち上がり出て行った。
 クロ。クロ。何がクロを殺したのか。殺させたのか。クロ。本当に死んでしまったのか。どうしてこの指輪をくれたのか。クロ。クロ。狼のようなクロは内側に何を思っていたんだろうか。どうして薬指に指輪をつけていたんだろうか。どうして右手なのだろうか。どうしてそれを見た覚えが無いんだろうか。クロ。どうして、太陽に喩えたのか。蛇だったのだろうか。クロ。あの指輪は誰にもらったのだろうか。クロは、一体どういう人だったのだろうか。クロがその右手の薬指に願ったことは何だったのか。クロはあの日の日食を見たのだろうか。真っ暗な昼を見たのだろうか。クロ。
 太陽は蛇に食べられた。死んだ蛇に。それでもまた少しずつ太陽は見え出すのだろうか。まるで蛇なんていなかったかのように。そうしてまた誰も蛇の事を忘れていくのだろうか。
 クロ。指輪ひとつが、自分を喰らった。もう、手の施しようも無いくらいに。クロ。そのすべてに強く憧れる。クロ。喰らうつもりで渡したのか。それとも、ただ要らなくなるから渡したのか。クロ。一体どこへ消えてしまったのか。クロ。クロ。クロ。



 その蛇が指輪に何を願ったか、知る由もない。





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