狂犬わんことの遭遇

 夕方の住宅街。藍川漆はいつも通りに家路を急いでいた。
彼女は他人と接触することを頑なに嫌がったし、成績は標準よりもかなり高かった。その上彼女にとってクラスメイトの女子達はただ面倒なだけの存在であったし、男子達はただ猿と同等の騒がしい物に見えていたから、放課後のお遊びや居残りは全くの無縁であったのだ。

 かつかつかつ、とまるで軍人の歩くように住宅街を闊歩する。時折肩から滑り落ちる荷物をかけ直しながら、高い位置で結われたポニーテールをひたすらに揺らし歩く。当たり前の日常であったそれは、住宅街の中の公園を通り過ぎるところで急に壊されることとなる。


「おねーさん、ちょっと遊びましょ」


 公園の中から不意に声をかけられた。男にしては少し高めのその声は人の動きを止めるだけの力をもって、彼女に圧し掛かった。あからさまな苛立ちの表情を浮かべ、自分の行動を阻害した犯人を見ようと公園内へと視線を向けた彼女は、直後目を丸くした。赤。噴水の縁に座るその男の目は、驚くほどに赤かったのだ。距離や彼女の視力に関係無く判別できるほどに。そしてその目は、よく言う「獣のような目」をしていた。


「興味が無い。右手とでも遊んでいろ」


 そう切り捨て、また家に向けて歩き出そうとしたとき。彼女のそれまで置かれた環境が幸いした。咄嗟に肩に下げていたスクールバッグを手元に呼び、そのまま盾のように構えた。べこ、と中に仕込んだ鉄板のへこむ音。腕が痺れ、後ろに下げた片足が砂利を巻き込んで更に少し下がる。鞄の向こうに真っ赤なバールが見える。


「凄いねおねーさん、受け止められたのなんてひっさびさー」


 そう男は笑う。バールから力が抜けたのを感じたと同時に三歩後退り、鞄を下ろした。襲ってきたその男は真っ赤な目でこちらを見て笑う。左手のバールは力なく地面を這い、右手は学校の物だろう制服の上からだらしなく羽織られた真っ赤なパーカーのポケットに突っ込まれている。けらけらと、男はただ無邪気に笑う。笑う。同時に眩しいまでの金髪が揺れる。けらけら。


「楽しくなってきちゃった、どーしよっか」


 喩えるなら、捕まえた虫を弄繰り回して遊ぶ小学生。そうでなければ、小動物を前にした犬だろう。純粋な、無邪気な悪意という言葉がよく似合うような、そんな笑い方を男はし続ける。笑う口元から尖った犬歯が覗く。ああ犬か、しかし忠誠の尽くせそうに無い感じは狂犬だな、と漆は考えた。

 そして狂犬はまた後ろ足で地面を強く蹴った。さっきの速さから言って、逃げ切るのは難しい。そう考えた彼女は狂犬を待ち構えた。迫る。迫る。2m、1m、50cm。バールが狂犬の後ろから回ってくる瞬間、見計らって漆は膝を折った。バールをかわした彼女はそのまま狂犬の脇をすり抜け、公園へと走る。道端で追い回されるよりかは障害物の多い公園内の方がまだましだろう、という結論を出したのだった。

 案の定狂犬は後ろから追いかけてきた。けらけらと笑う声が彼との距離を教えてくれている。中の小さな噴水を回り、シーソーの方へとそのまま駆ける。けらけら。けらけら。だんだんと近づく笑い声が感情を煽る。このままではシーソーに辿りつく前に追いつかれてしまうだろう。息を切らせる彼女の考えは、しかしまた急に覆される。

 がきり、と背後で硬い物同士のぶつかる音。止まった笑い声。それと入れ替わるようにして聞こえる、随分と楽しそうなことしてるね、という落ち着いた女性の声。シーソーまで着いてから、荒い呼吸のまま振り向く。それは彼女の想像を超えた光景だった。先ほど自分にしてきたのと同じようにバールを振るう狂犬。ただ、その標的は同じように武器を相手に向けて振り回す女性だった。あれもまた学生なのだろう、制服に身を包みヌンチャクの持ち手が増えたような物を両手に一つずつ持っている。驚くべきなのは、それで狂犬と激しい攻防戦を繰り広げていることだった。思考の入る隙間もなさそうなほどの速度。まるでアクション映画のようなそれに漆はただ驚いた。


「あの人、強いよ。」


 突然下方からかけられた声にまた漆は驚く。見るとぼさぼさ頭にジャージ、黒縁眼鏡のいかにも冴えない雰囲気の男がしゃがみこんでいた。


「人を殴ることと自分が気持ちよくなることしか考えてないから、そういう趣味が無いんだったら帰ったほうがいいんじゃない」


 男は抑揚も感情も無い声でそう言った。心底どうでもいい、というのを隠す気も無いらしい。それは漆も同じことではあるが。


「そうか、なら私の分までよく楽しんでくれと伝えてくれ」


 それだけ言って、漆は公園を出た。崩すものがいなければ、またいつも通り帰路につくだけだ。先ほどのことは、本人達は楽しんでいるようだったし、自分にはもう何の関係のない出来事まで成り下がった。もはやどうでもいいのだ。そうして彼女は戻っていく。自分の世界へと。日常へと。









「あの子は帰ったのね」


 狂犬と殴り合いながら彼女は言った。激しい打撃の応酬にも彼女は息一つきらさない。


「"伝言"は伝えておいたっす」

「そう、ありがとう」


 やる気のない彼の声も気に留めず礼を言う。彼女にとって漆は殴っても楽しめそうにない上にヤれそうもない、価値のない存在だった為に帰した。それと。

「あれ、さっきのおねーさんがいない」

 ふと狂犬が今気づいたようにごちた。わざとらしい声で言いながらそれでも手は休めない。二人ともに話しながら殴るということに慣れていた。

「いたらそうやって集中できないでしょ?帰したの」

 彼女の言うことはもっともで、狂犬はいるもの全てに噛み付いたろう。多節棍で激しく殴りつけてくる彼女を相手にしながら。彼女はよくわかっている。狂犬はにやりと笑った。

「そうだねえ、でも俺そろそろ疲れてきちゃった」

 そう言って狂犬は一歩下がる。この二人では決着はつかないことは、その二人ともがわかっている。終わらせるにはどちらかがこの場から離れる他ない。金色に染めた髪を揺らして、狂犬は後ろ向きのまま地面を強く蹴った。

「帰るの?もう少し遊びたかったのに、残念ね」

 笑う彼女に、公園の壁の上でしゃがんだままごめんね、と狂犬も笑った。そろそろ日が沈むから、行かなければいけない場所がある、と。彼女ももう引き止める気も追う気も無いのか、多節棍をケースに直し、狂犬のことを見上げている。滅多に出会うことの無い、同程度のレベル、似たような趣味を持つ相手。今ここで無理に止めなくともまた必ず会えるだろう。悲鳴の聞こえる場所で。

「じゃあねおねーさん。楽しかったよ、またね」

 そう残して狂犬は消えた。彼もまた戻っていくのだ。自分の世界へ。日常へ。





「先輩、」

 呼びかけようとして、止めた。もう彼女の目は先ほどの獣のそれから艶っぽいものへと変わっていた。この目のときに話しかけても無駄なことだ。どうせまともな返事はこない。求めることは一つ。

「ちょっと、遊ぼうか」

 自分にとっても、その方が楽でいい。そう思いながら、一緒に公園内の公衆トイレへと彼女を促した。自分たちにとっても、例外が消えた瞬間からもう自分たちの世界、日常なのだ。何にも構うことは、ない。