歯車

 歯車、なあに?
 これはお前の頭だよ。
 こっちは?
 これは心臓だ。
 じゃあ、これは?
 これはいらない物だ。
 どうして?
 こんな物があっても傷つくばっかりだからね。

 シューシューと蒸気が音を立てる。黒い汽車は駅に止まってもう20分になるというのに未だ出られずにいる。
「待って待って、乗ります!」
 慌てて駆け寄り飛び乗ると、途端にドアが閉まり笛が鳴る。ガコン、という音と共に少しずつ車輪が回り、駅から離れていく。無事に乗れたことに安堵しコンパートメントに向かうと若い少年が狭い通路をかけていった。はて、と追いかけてみると家族連れらしきコンパートメントに入っていく。丁度良い、長い旅路だ。少しお邪魔させてもらうとしよう。
「失礼、少しここに邪魔させていただきたいのですが。」
「ええ、構いませんよ。どうぞ。」
 優しい人たちで助かった。もちろん自分の席はあるだろうが、座らずとも問題はあるまい。私は荷物を棚に上げ外套を取ると、夫婦らしき若い男女と面するように腰掛けた。二人は寄り添うように座り、子供たちはそこらを跳ね回っている。
「ご家族ですか?珍しいですね。」
 そう訊ねるとご婦人が柔和な笑みを見せる。
「家族じゃありませんのよ。この人は私の恋人で、あの子たちは私の子ですの。」
 それは失礼を、と軽く頭を下げると紳士はふと笑い、彼女を軽く抱き寄せた。
「私が無理を言いましてね、彼女もあの子たちも好きなものですから。こうして付き合ってもらっているというわけなのです。」
 ははあ、成る程。道理で愛情に満ちているわけだと納得した。この汽車には数回乗っているが、ここまで愛情に満ちたコンパートメントは珍しい。大抵は憎悪だったり嫌悪だったり、或いは自責の念だったりと醜悪な感情ばかりになってしまう。せっかくの旅をそのような気持ちで過ごすのは実に勿体ないことだ。
「ところで、あなたはどのような理由でこの汽車を?」
 紳士はふと思いついたように返してきた。とはいえ、ずっと気になっていたのだろう。私も何度か乗るうちに訊かれたこともあったが、誰も皆他人の乗車理由が気になるのだろう。
「私は仕事でしてね。向こうに着いたらまた明日の便で引き返さなければならないのですよ。全く、因果な仕事です。」
 私の言葉にご婦人は若干表情を堅くしたが、微笑んでみせるとぎこちない微笑みを返してくれた。そんなに緊張なさらなくとも、と付け足すと少しだけ安堵したように見えた。
「それはそれは。大変でしょうね、私たちにも出来るでしょうか?」
「どうでしょうね、もし宛がないのでしたら私の方から紹介させていただきますが。」
 途端に紳士は表情を明るくさせた。ただ、私の見立てでは子供たちが精一杯だろう。この仕事に必要なのは無垢な心だと、親に聞いた覚えがある。大人になるとどうしても荷物も増える。子供たちにはおそらくそのズボンのポケットに入るくらいの荷物しかないはずだ。トランクとポケットではその身軽さは大違いだ。
「ありがとうございます。この身一つで来てしまったもので、大変不安だったのですよ。」
 紳士はしきりに頭を下げる。上げるように言うと、今度は帽子を取って会釈をした。余程不安に思っていたのだろう。この汽車に乗る人は不安を持つ人ばかりだ。
 コンパートメントの窓から外を見る。一面の曼珠沙華と川が見える。いい天気だ。雨が降っていると乗客の数は一気に増えるが、今日はそんなこともない。少し窓を開けると暖かな空気が流れ込んできた。時折聞こえる汽笛が目的地への到着が近いことを示している。
「そろそろ着くようですね。いや、あなた方と話せてよかった。いい旅になりましたよ。」
 私は立ち上がり、棚の荷物を下ろした。外套を羽織ると、礼をしてコンパートメントを後にした。狭い通路ではまだ子供たちが無邪気に駆けている。うまく避けるようにして通ると、少年たちは明るい声を出しながら先ほどのコンパートメントに入っていった。平等に訪れるものだとはいえ、若干惨いようにも思われたがそれは私には関係のない事情だ。私は前方へと向かい、車掌室の扉の前に立つと軽くノックをした。若い男性の声に扉を開けると、車掌は軽く笑って見せた。
「どうだい、死神さん。収穫はあったかい?」
 ええ、と返すとそうかそうか、と楽しそうに笑う。今日は一段と愛情に満ちた客がいたと話すと、車掌は手帳を取りだしペラリペラリと捲った。
「あああった、これか。車で海へ一直線。子供たちは兎も角、大人は駄目だろうねえ。殺したも同然とあっちゃ、地獄行きは免れまいて。」
 そうですか、とそれだけ返すと車掌はまたペラリペラリと手帳を捲る。ただ、捲っているだけで何を見ようというわけではないようだった。
「愛情とは何でしょうねえ。」
「それはお前さんには永遠にわからんことさ。何せ歯車が足らんのだからな。」
 無垢な子供を騙して殺しても、あれだけ愛情に満ちているのがわからなかった。あの愛情は間違いなくご婦人や少年たちに向けられていた。ご婦人も、少年たちもみな愛し愛されていた。では愛情とは何だろうか。私には到底理解及ばない。
「ま、兎も角もうすぐ川越えだ。どちらにしろ戻れんさ。それよりお前さん、上司に紹介するんだろう?あの子等を。早く書類を書いたらどうだい。」
 そうだ、仕事はしなければならない。あの少年たちを、新人として迎える支度を。
「感情がわかる日は来るでしょうかねえ。」
「一億年経っても来ないだろうよ、俺たちには。」
 見せかけの歯車じゃな、とまた車掌は笑って見せた。
 私たちもまた、命を回すための歯車。