ブック・メイク・クリエイト

 その男は、唐突に目の前に現れた。
 いっさいの露出のない格好のその人を「男」だと思ったのは、まるきり僕の勘による。体の一切に出っ張りも引っ込みもない、おそらく人だとしか判別できないそれは、確かにとりあえず男に見えた。
「やあ、こんにちは。」
 深めに被ったフードから、男としては高めのハスキーボイスが漏れた。どこに向けてかもわからぬそれを聞き流し、僕は半歩下がって両腕を軽く広げ、肩から手に向けて2匹の白い大蛇を呼び出した。
「誰だね、君は。」
「綺麗な蛇だね。」
 僕と男は全く同時に口を開いた。不快感を表すため眉間にしわを寄せ、右手側の蛇の頭で眼鏡を持ち上げさせると、小さく息を吐いた。
「退いてくれ給え。」
「知っているかい。」
 またも同時だった。いや、今度は男の方がほんの少し早かった。いよいよもって僕はこの男をいぶかしんだ。
「一体何をかね。」
「この世界はね、」
 遂に男の言葉は僕の問いを遮った。偶然ではなく、わざと合わせたのだと気づいて、ローファーの足がまた半歩下がった。それに合わせるかのように、男はくるりと回って、パーカーの裾を広げた。
「この世界はね、あと1時間もせず消えてしまうんだよ。」
 踊り終えたプリマ・バレリーナの格好で、男は軽くひざを折った。そのまま今度はプリモのように頭を下げ、腕を目の前で踊らせた。
「改めまして、こんにちはハニィ!どうか逃げるのは少し待って、私の話を聞いてほしい!」
 急に芝居がかった口調で一気にまくし立てられ、僕は後ろに向けていた重心をぐっと戻した。男の言葉で逃げるのをやめたのではない、諦めたのだ。間違いなく、読まれている。そのことを確信しての判断だった。
 その様子を見て、男はぱっと姿勢を正すと、僕に1歩近づいた。
「聞いてくれるんだね、ありがとう!しかし今回は時間がない、大事なことだけ掻い摘もう。」
 男は小さく息を継いだ。
「この世界は、今朝の9時50分に生まれた。全員がそれまでの記憶をもった状態でね。そして、今晩19時23分にその役目を終えてさっぱり消え去るんだ。」
 僕は重心を後ろにかけ直した。頭がイってしまっている、とさえ思った。今朝世界が生まれ、今晩消える。100人が100人あり得ないと一笑に付すだろう。それだけ馬鹿馬鹿しい与太話だ。第一、何の証拠があってそんな話。
 はっとして、いつの間にか下がっていた顔を上げた。真実である証拠など何もない。だが、嘘である証拠も何もなかった。
「君は聡明だね。」
 面の模様がフッと微笑んだように見えた。
「聡明さで損をすることは何もない。いいことだよ。さて、じゃあ、このプレゼントを受け取ってもらえるかな、ハニィ?」
 ジーンズのポケットを前屈みにごそごそと探すと、男は何か平らなものを差し出した。どう見たって怪しいそれを拒むように2匹の大蛇は不安げに体を這い巡るが、やがて左手側が差し出された何かを鼻先で軽くつつき、くわえ取った。
 それは一見普通の栞のようだった。若干曲がるものの硬く頑丈に出来ており、ひたすらに白くガラスのように輝いている。トランプより少し縦に長いそれの正面には大きな2匹の蛇と、その周りを埋め尽くすような小さな花が切り絵のようにデザインされている。天辺に開けられた穴には手触りのいい、白く小さなリボンがくくられている。僕にも判るほどに上等な物だった。
 じろじろと栞を眺めていると、やがて男は手を差し出した。それに気づいた僕は栞をセーラー服の胸ポケットへと収め、視線を男に戻す。戻した。戻してしまった。
 僕は走り出していた。男と真逆の方へと一目散に逃げた。読まれているだのどうだのは全く頭から抜け落ちていた。何故気づかなかったのだろうと、息を切らせながら僕は考えていた。
 顔を上げたとき、僕はようやく男の腕を見た。力なくパーカーのポケットにつっこまれた両腕。そして差し出されたままの右手。いや、正確には右手の袖口と手袋だけが僕の目の前で浮いていた。僕らは1人1つ違う能力を持ってはいる。が、自分の体を分離させ、浮かせ、自在に操るものなんて1つとして存在はしない。もっと言えば、3つも能力を持つ者は決して存在しない。
 あの男は、明らかな異常だった。
 気付けば家からも学校からもだいぶ遠いところまで来てしまっていた。時間を確認する。あれから1時間ほど経っている。もうあれもいないだろう。しかし念のため遠回りをするように家路についた。自宅のベルを鳴らせばいつも通り母が迎えてくれる。台所の前を通れば魚を焼くにおいと味噌のにおいがする。夕飯の準備をしているようだ。いつも通りの日常だ。何も変わらない。そうだ、あんなものはあり得ないのだ。見間違いだと、自分に言い聞かせた。
 夕飯を食べ終わり、片づけを手伝ってからテレビを眺める。大しておもしろくもない芸人が馬鹿騒ぎをしている。何が楽しいのだろうかとソファに座ったまま僕は思案する。昔からこの手の番組は理解ができない。
 は、と気づく。そう言えばあの男が言っていた時間はもうすぐだ。しかし、世界には消えそうな雰囲気など全くない。テレビや携帯が急に鳴り出して、隕石の接近を訴えたりなどしていない。やはり、あの男の妄言だったのだ。僕は安堵する。母が呼んでいる。風呂が沸いたのだろう、さっそく僕は浴室に向か

 カチリ

「さあ、いよいよ体育祭もクライマックスです!熾烈な勝ち抜き戦を突き進んできた両チームが決勝の舞台へと降り立ちます!!」
「審判、君、ルールというものは非常に大事だと思うのだがね。」
「はい?何でしょうか。」
「僕の側は規定通り6人、対して相手側はその半分の3人しかいないじゃあないかい。」
「はい、ルールは『最大6人まで』ですので、間違ってませんよ。」
「じゃあ君は2対1の図が出来上がろうとも構わんというわけだね?」
「そうですね、ルール上は。
 できれば、ですけれども。」
「もーいい?ここまで来たら優勝しよーね!」
「俺らのコンビネーションなら余裕だろ!」
「先ずは落ち着き給え。人数ならば此方が上だが、相手も決勝まで駒を進めたということはそれなりの強さを持っていると考えるべきだろう。」
「つまり油断するなって事?」
「まあそういうことになるかね。」
「回りくどいね。もっとさらっと言えんのかい。」
「じゃあ、行きましょう。その、3人組とやらを拝みにね?」
「では試合———開始!」

 —————
「———終了!優勝は—————」
「僕達が負けるとは……考えもしなかった事態じゃあないかい。」
「2対1だったはずなのに……」
「圧倒されちまったな。」
「向こうは勝利の余韻に浸ってすらいないんか。強いな。」
「もう、終わろうか?」
「ん、何が?」
「いや、相手がそう言ってるのが見え

 カチリ

「—————おい!聞いてんのかい!」
 いけない。ぼうっとしてしまったようだ。呼ばれて初めて気がつくとは、全く自分らしくなかった。
「いや、すまないね。今朝見た夢を思い出していたところでね。」
「夢?どんなの?」
 友人の1人が食いつきを見せる。快活な彼女は昔からこういうメルヘンやロマンティックな話が好きだ。
「僕達6人がチームを組んでだね、文化祭の出し物のひとつである勝ち抜き形式の戦闘大会に出るというもの、だよ———?」
「何だそれ。変わった夢だな。」
「それで、強かったのかしら?」
 いつも勝ち気で豪放磊落な彼はあまりの内容に首を傾げるが、進行役の上品な彼女は全く歯牙にもかけぬように続きを促す。いつもの光景だ。しかし僕は自分の言葉にどこか違和感を覚える。
「決勝まで進んだのだが、そこで負けてしまってね……」
 僕は言いながら考え込んでいた。何故ここまではっきりと夢を覚えているのか。あれは本当に夢だったのか。いや、その前の夢もだ。あの変な面の男と会うという、夢———。
 セーラー服の胸ポケットに手を入れる。カツリ。爪が硬いものに当たる感覚がした。それをつまんで引き上げると、あの夢で見たものとそっくり同じ真っ白に輝く栞が出てきた。
「夢……」
「次、体育だよ?着替えないの?」
 オカンとあだ名されるほどに世話焼きな彼女の声に栞を再び胸ポケットへとしまい顔を上げると、クラスメイトは皆もう着替え終わりワイワイと雑談をするばかりだ。それもチャイムに背を押されるように次々と教室を出ていく。
「少しばかり、体調が良くないようだ。保健室に寄ってから行くと先生に伝えてくれるかね?」
「もちろん!大丈夫?ゆっくり来てね!」
 彼女は手を振りながら教室から出て行き、しばらくするとパタパタという上靴特有の軽い足音も遠ざかっていった。誰もいなくなった教室はしんと静まり返っている。僕は目を閉じると軽く両腕を前へと伸ばし、意識を集中させる。
「ランプ、メロウ。出て来給え。」
 僕の呼ぶ声に合わせるように、2匹の白い大蛇が夢と同じように腕を這いながら出現する。夢ではない。夢であるはずがない。そう確信すると、栞を強く握った。
「誰も居やしないよ。出て来給えよ、仮面。」
「仮面呼ばわりとは随分な扱いだねハニィ?」
 案の定だった。男は夢とそっくり同じ姿で、自分の台詞にぴったり声を合わせてどこからともなく現れた。僕はわざとらしくため息をひとつ吐く。
「君の途方もない話を信じようと言っているんだ。何の文句が有るんだね?」
 そう言うと男はケラケラと笑った。耳につく厭な笑いだ。わざと気に障るようにしているのだと気付くのにそう時間は要らなかった。
「やっぱり、君は聡明だね。いや、いいことだ。今なら時間もある、話をしようか、夢林檎(ゆめりんご)。」
 言いながら男は適当な椅子を引いて腰掛ける。うながすような手振りをされ、僕も同じように近くの椅子に座る。ふと、手前の男の言葉が気についた。
「夢林檎?」
「君の名前さ。君に栞を渡してからの、ね。」
 そういえば。夢———いや、夢だと思っていた、別の世界———では、僕は全て違う名で呼ばれていた。この世界での名前も、今までの世界とは違うものだ。しかし記憶は引き継いでいる。夢林檎とは、この引き継いだ状態の自分の名前だろうか。
「本当に聡明だ。説明の手間が省けるよ。」
 男が笑う。苛立ちはあるが、先読みされてしまうようではどうにも相手が悪い。仕様の無いことだと割り切るようにした。
「私は星号(せいごう)。その栞の製造者さ。」
 やっと名乗った星号の言葉につられるようにして栞を見る。2匹の蛇と、小さな花がデザインされた白い栞。この栞を造ったのが星号であるならば。この蛇は両腕の大蛇だとすると、この白い花は———
「林檎の花、か。」
「御名答。」
 つまり、僕自身を表しているということになる。2匹の大蛇の召喚は僕の固有能力であるから、僕以外の誰にも当てはまらないものになる。そういう考え方をすれば、このデザインには他人との差別化の意味もあるのかも知れない。
 しかし栞自体の意味はわからないままだ。ただのプレゼントというにはあまりにも凝りすぎている。少なくとも初対面の相手に渡すような代物じゃあない。星号がわざわざ製造者と名乗りこれを造る意味はもっとわからないし、僕が記憶を跨ぐようになった理由に至っては全く解明も説明も何もなされていない。何もかも言葉が足りていない。
「説明をお望みかい?」
 いちいち心を読むような台詞を吐いてくる星号に軽く頷いてみせると、小さく頷き返し腕を軽く組み、ゆっくりと足を組み直した。その一連の仕草にあまりにも女性的な色気を感じて、本当に男なのか女なのかわからない奴だと僕はまたため息をつく。
「まず、この世界は心中世界(しんちゅうせかい)というんだけれど、これらはすべて独立していてね。最初にも言ったとおり、世界の最初にすべての物がそれまでの記憶を持った状態で生成され、終わりですべて破棄される。ここまではいいかな?」
 いちいち聞くな、といわんばかりに顎でさしてやると星号は言葉を続ける。
「始まりと終わりの時間は世界ごとに決まっていて、長さも始まりの時間もそれぞれ。そして、その世界の住人たちは基本構成が決まっていて、主役となる人たちの周りであてられた役目をそれと知らずにこなして終わる。つまり、君たちはモブキャラクターということさ。世界が生成される度に何度も生まれ、破棄される度に死んでいるのさ。」
「世界にはそれぞれ主役がいて、物語があると、そういうわけかね?」
「そう。現実、屋上ではこの世界の主役である3年生と1年生が授業をさぼって日食についての話をしている。3年生の方はもうすぐ死んでしまうけれどね。」
「ふむ。それで?」
 星号は少し驚くように手のひらを上に向けて軽く腕を振るジェスチャーをした。わざとらしさが鼻につく。
「ああ、止めに行くかと思ったんだけど。一応説明しておくと、物語の根幹に関わる事態に干渉は出来ない。記憶を持っていても、能力を持っていても、物語を知っていても、さ。」
「他人の生き死にに興味はさほど無いね。第一、干渉出来ないのならば行ったところで無意味だろう。ところで、なぜ僕は記憶や能力を持っているのかね?この世界には固有能力は無かったと記憶しているのだがね。」
 浮いた手袋が人差し指を立てた形で星号のお面の前に浮く。まるで推理小説の気障で神経質な主人公がとんちんかんな助手を真相へと導いているようだ。僕はそんなものになった覚えはないし、そもそも星号の助手なんて真っ平御免だが。
「いい質問だ。それは、栞が覚えていてくれるから、だよ。元々、私はこの心中世界を自由に行き来出来る唯一の存在なんだ。しかし、そうやって世界を見て回るのにも飽きたのさ。そこで、栞を作る能力を手に入れた。その人物を模したデザインの栞を作ることで、能力の貸与が出来ないかと考えたのさ。」
「能力の貸与だって?」
「そうさ。私の持つ世界を越える力、記憶や能力を持ち越す力。それらを栞を渡すことによって貸し出せないかと考えた。結果、君は2匹の大蛇と記憶を持ち越した。」
「確かにそうだ。ということは、栞を貰う以前の僕も存在したということかね?」
「そうだよ。その記憶はもう取り戻せない。なぜなら栞がその記憶を知らないからさ。そして、記憶は書き足されるが能力は一時的にしか書き足されない。もっと言えば、その世界で手に入れた能力はその世界でしか使えない。最初の世界の能力は君の性格と同じように根幹に残るものだから、大蛇は消えることはないけどね。」
「ふうむ。ここまでの話はよくわかった。で、この栞で僕に何をしろと言うんだ?」
 ギイ、と誰のものかも知らない椅子に深く座り、ため息をついた。本当に大事なのはここからだろう。胸中を知ってか、星号は楽しそうな素振りで手をうった。
「話が早いね。記憶を持って世界を越えたなら、その物語の根幹に関わらない程度に暴れてやろうじゃないか、というのが俺の企みだ。」
「具体的には。」
「この世界でなら、学校の占拠なんか面白そうだね。犯罪を犯したって構わないんだ。刑務所に入れられたって、世界が破棄される方が先だからね。」
 うきうきと計画を列挙し続ける星号に、はたと気付いたことを口にする。
「そうだ、訊き忘れていたのだがね、」
「何だい?」
「世界が破棄される前に僕が死んだら、どうなるんだね。」
 ぴたりと喋るのをやめ、そのまま少し黙る。饒舌に喋り続けた星号が初めて考えたふうだった。
「生き返ることは出来ないだろう。多少の怪我なら世界と世界の狭間で治るのを待てばいいが、死んだときは……保証は出来ない。」
「そうかね。」
 腕を組み、再び深く座り込む。死という感覚に興味が無かったと言えば全くの嘘になる。が、死を恐れないことも怖かった。実のところ、少し安心したのだ。
「君が、世界を越えることや平穏を捨てることに少しでも抵抗があるなら栞を返してくれればいい。僕はそこまで強制するつもりはない。」
「誰が抵抗が有るといったかね?」
 しかし僕は待っていたのだ。この退屈が終わる日を。
「一暴れで済むと思ったら間違いだよ、君。大いに暴れてやろうじゃあないかね。なあ、ランプ、メロウ。」
 両腕の大蛇も心なしかうれしそうに頭を縦に振る。固有能力とは言え、それぞれが感情と知能を有している。僕の命令に従わないときすらあるほどだ。
「いいだろう。ここの世界はあと20分ほどで破棄される。それまでゆっくりしているといい。」
 星号は廊下に出て行ってしまった。破棄されるとき、またあのカチリという感覚を味わわなければならないのだろうか、と陰鬱な気分になっていると窓から星号がひょっこりと顔を出した。
「安心して、根城にしている狭間の空間にも案内しなきゃいけないし、破棄される1分前には迎えにくるわ!出来れば女子トイレなんかにいてくれると姿を見られずに済むから助かるわね!」
 それだけ言うと4階という高さをものともせず消えていった。結局、星号については分からず終いだということに気がついたが、もう星号は顔を出したりはしなかった。

 やがてチャイムが鳴り、クラスメイトたちが体育の授業を終えて戻ってくる。残り10分といったところだろうか。いつもの6人組だと思っていた彼らも、半分が購買のパンやおにぎりを持って戻ってきた。いつもの光景だが、それすら錯覚なのだと思うと吐き気がした。
「結局授業来なかったね!大丈夫?」
「何だ、調子でも悪いんのんか?」
「気にしないでくれ給え。少し吐き気が有るだけだ。」
 伝言を頼んだ彼女の声に続けて、出身地のせいか妙な口調の抜けない彼が心配する素振りもなく言葉をかけてくる。軽く笑ってみせると2人はそう?と言いながらもパンや弁当のおにぎりを口にする。
「月のさわりか?」
「デリカシーの無い発言は控えてくださいな。」
「そーゆーとこ、さいてー!」
 豪放磊落な彼の言葉に進行役がぴしゃりと叱り、快活な彼女がそれを見て笑っている。こうして笑いあう光景も見納めだろうか。それとも、別の世界にまた彼らがいて、また同じように笑いあうのだろうか。どちらにしても気分の悪いことこの上なかった。
 気分が悪すぎて、笑いがこみ上げるほどだ。最低で最悪で最高の気分だ。
 だからといって、後に引こうなどとは微塵も考えてはいない。
「君達には幾らお礼を言っても足りん。楽しかったよ。」
「……何?どしたの?」
「今から死ぬみたいで気味が悪ィぜ。」
「そんなつもりは無かったのだがね。」
 何せ、今から死ぬのは君達だ。喉まで出掛かった言葉を飲み込む。存外性格が悪かったのだと、今更ながらも自覚した。いや、これからには役立つかも知れない。
 壁に掛かる時計をちらと見やる。あと3分。トイレまでは2分ほどだ。頃合いか。ゆっくりと席を立つ。
「悪いが、少し便所に立たせてもらう。気にせず食事を続けてくれ給え。」
「おう、死ぬなよ。」
「生憎便所で死ぬ趣味は無い。」
「あったら怖いわ。」
 騒がしい教室を抜けだし、トイレへと向かう。途中、上から降りてくる1年生とすれ違った。あれが主役か。上にはまだ教室があるが、確実にそうだと分かった。他の、教室にあるのとは全く違う。存在が違うのだ。栞を持ったことで、主役とそれ以外の見分けがつくようになったのかも知れないと考えた。
 女子トイレに入る。ちょうど誰も居らず、時間もぴったりだった。破棄まであと1分と少し。時間の正確さには自信があった。
「お待たせハニィ!さあ行こうか?」
 鏡の中に映る僕をかき消すようにひょっこりと現れた星号に、もう何でもありだなと言葉にする気力すらもはや起きなかった。鏡面から伸びてきた浮かぶ手袋をつかむ。案外がっしりと掴めるものだと思いながら、そのまま鏡の中に引きずり込まれる。どこぞのSFファンタジーのようだとも思った。

「ようこそ、我らが根城へ。」
 そこは小さな楽屋のようなスペースだった。真ん中に会議用の簡素な机が置かれ、周りにはパイプ椅子がまばらに置かれている。ドアの外にはまだ空間があるというが、望めば望むだけ出てくるというのにはさすがの22世紀型ロボもびっくりだろう。そして一番驚いたのは、他にも人がいたことだった。冷静に考えれば僕が最初ではないことは分かったのだろうが、なにぶん突然のことだった。興奮していたのだろう。
「あんたが夢林檎ちゃん?かわええのう。」
 2人の男が話しかけてきた。彼らも栞を渡されたのだろう。名前は先に星号から聞いていたのだろうか。
「よろしく頼むよ。」
「かっこええ口調やのう。」
「俺らは品長(じなちょう)。2人で1組なんだ。」
「ニコイチ言うやつや。よろしくな。」
「俺よりもこっちの方が頭がいいから、たばこがイヤじゃなければ相談はこっちにね。」
「お前が頭悪すぎんのや。」
 背の低い方が関西弁で、高い方が標準語で話してくる。年齢は2人とも僕より上に見えるが、顔や声は全く似ておらず兄弟はおろか親戚にすら見えない。元の世界では何をしていたのだろうか、息が妙に合っている。
「ミトスの試みが何時かと見ましたのね。」
 後ろで声がした。振り返ると、同じくらいの年だろう学生服を着た女の子がパイプ椅子に行儀良く座っていた。染めているようには見えない綺麗な金色の髪がふわふわと薄いカーブを描いていて、顔も可愛らしい方なのだろうが、眉毛がないせいか不気味な印象しか受けない。目は遠くを見ているが、タイミングからするとどうやらこちらに話しかけているらしい。
「砂時計に針のBと目指しますわ。木星の屋根を牛乳が垂らしますの。」
 全く意味が分からない。単語なら理解出来るが、文章として成り立っているのかすら怪しい。いわゆる電波というものか、と僕は顔をしかめる。
「夢林檎の姉ちゃん、その子は北溶(きたどけ)言うんや。」
「単語は同じだけど、俺らとは全く違う言語を話してるから意味は理解できないと思うよ。」
 横から説明するように品長が口を挟む。なるほど、言語が違うのか。となれば、だ。僕はゆっくりと右腕を前に上げる。
「メロウ。」
 持ち上げた腕にじわりと、霧が集まって固まるように大蛇が現れる。おおっ、と品長から小さな歓声があがるが無視する。現れた大蛇はちろりと舌を出し僕と目を合わせると、北溶の方を向いた。
「もう1度言ってもらえるかな。」
「砂時計に針のBと目指しますわ。木星の屋根を牛乳が垂らしますの。」
 こちらの言葉は通じるらしく、すぐさま繰り返してくれた。内容は自分の名前と能力。単なる自己紹介だったようだ。
「ふむ。僕は夢林檎。君の言語を解する能力を持っている。いつでも通訳に使ってくれて構わんよ。」
「摩天楼が陽と射しますわ。」
 こんなに丁寧な礼を言われるとは、かなりの苦労をしたのだろう。言葉が通じないというのはなかなかに不便なものである。今までの記憶では経験はないが。
「はーっ、すごいねえ。」
「やるなあ、姉ちゃん。」
 品長が感嘆の言葉をもらす。他にやることもないようで、じっとこちらばかりを見ている。
「他に人はいないのかね?」
「いるけど、今は違う世界に行ってるよ。」
「星号はそん仕事終わる頃や言うて迎え行ったで。」
 2人は言葉を補完し合っているらしい。そして星号が連れてきたきりいない理由もよくわかった。
「移動は自由に出来ないのかね?」
「出来るんやけどな、どこに飛ぶかはわからんねや。」
「世界の捕捉は北溶の役割だからね。」
「ふうむ。役割と言うものがあるのだな。北溶に手伝ってもらってもだめなのかね?」
「北溶が出来るんは捕捉までや。好きな世界に飛べるのは星号だけやから、1人で飛んでもうまく捕捉された世界に飛べるかはわからん。」
「もしうまく飛べずに違う世界に行っちゃったら、星号が迎えにくるまで待ってなきゃいけなくなるしね。」
 迷子がその場から動けなくなるのと同じか。だとすると、ほぼここに鮨詰め状態になるわけだ。顎に手を当て、考える。
「散歩くらいなら適当な世界を北溶に探してもらって、あとはうまく飛べるのを祈るしかないね。」
「飛べても帰りはお迎え待ちやし、星号が来る前に世界が消えよったらそんままオダブツやけどな。」
「随分不便だね。息の長い世界は存在しないのかね?」
「たしかに、待ち時間結構暇なんだよな。今度星号に訊いてみようか。」
「おお、それがええわ。ほしたら俺らも遊び行けるしなあ。」
 どうやら星号以外は心中世界について詳しくないようだ。北溶は捕捉はできるが、会話ができないので彼らに伝わることもなかったのだろう。しかし別段彼らを責めようなどとも思わなかった。
「ふああーっ、今度のは疲れたわー。」
 突然ドアが開き、若干老けた女性が入ってきた。これが先ほど品長の言っていた残りの仲間だとすぐに気付いたのは、その2つ後ろに星号が見えたからだ。
「そう喚くな。疲れなどなかろう。」
 女性と星号の間に、異常なまでに顔が小さく背の高い男性が見える。10等身ほどのように見えるが、その構造はどうなっているのだろうか。
 とにかく、彼らの名前を知ることが先決だと僕は決めた。
「やあ、はじめまして。君達が品長の言っていた残りの仲間かね?」
「あ、ちょっと待って。クスリの時間だわ。」
 かけた声は虚しく通り過ぎた。人の話を聞いたらどうだと自分のことを棚に上げたくなる思いだ。
「ああ、貴様が新入りか。随分小さいのだな。」
 後ろの男が代わりに通り過ぎた声を受け取った。僕が小さいのではない、君が大きいのだ、と言いたいのを飲み込んで自己紹介を試みる。
「ああ。夢林檎という。よろしく。」
「そうか。俺は野心(やしん)。あの薬物中毒者が副麻(ふくあさ)だ。」
 野心と副麻か。クスリの時間だとは言っていたが、中毒者だったとは。先ほど副麻が通り抜けた先を見やると、彼女は瞬きもせず一心不乱にスプーンを炙っていた。
「ええ加減やめんと危ないで、おばはん。」
「おばはん言うんじゃないわよ!これがなくて何があたしなの!」
「俺らは心配してんですよ、副麻。」
 品長の憂慮も届かない様子だった。これは薬が抜けてから改めて話すべきだろうと判断し、また野心の方へと体を向けた。
「それで?君達の能力や役割といったものは説明してくれないのかね?」
「品長、貴様等はもう夢林檎に役割まで話したのか?」
 質問を質問で返すどころか別のところに飛んでいくのを見て気分のいい人間はそうはいないだろう。きつく顔をしかめるが、野心の視界にも入っていないようで品長の方をまっすぐ見ている。ああ、腹立たしい。
「俺らは言ってないですよ。」
「せや、こん子凄いんで!北溶と話せんねや!」
「北溶と……?」
 やっと視線を戻した野心をいかにも不機嫌だという風に睨みつける。しかしこの見るからに軍人というような男には通用しなかった。
「詳しく聞かせろ。夢林檎、だったか。」
「聞いたとおりだよ。僕の呼び出す蛇は言語理解という能力をもっているというだけだ。」
 言語理解。それは僕の知らない言語でも、相手の脳から言わんとすることを読みとり、僕へと伝える。逆も然り。それが右腕の大蛇、メロウの能力だ。
「成る程、その蛇の能力であの北溶の言語を解したのか。」
「其の通り。なかなかに理解が早いじゃあないか。」
 皮肉で言ったのだが、気にするどころか無視を決め込まれ僕はさらに激昂する。
「残念だが、俺には貴様や副麻のように別段語るような能力はない。」
「そいつの能力は硬化。しかも人の目を引く体質だから、無駄に頑丈でしかも目立つただの壁よ。」
 突然飛んできた声に振り向くと、少しだけ落ち着いたらしい副麻が若干虚ろな目で話していた。どうやら打った直後らしく、手にはまだ注射器が残っている。
「硬化とは、どの辺まで硬くなれるものなのかね。」
「すっごく硬いわよ、すっごく。0距離でRPG喰らったって少し煤ける程度のもんよ。」
「おい、この女の言葉は基本的に信用するな。常に薬でトんでいるからな。」
「ふざけんじゃないわよ、今はまともよ。」
「そもそも頑丈なのは能力ではない。誰でも鍛えればこの程度にはなる。」
 誰がどう考えてもRPGで煤ける程度まで鍛え上げられるとは思えないのだが、しかしその思いこみこそが彼の能力の一端なのかもしれないと僕は考え直し訂正の言葉を飲み込んだ。
「そうかね。副麻も教えてくれ給えよ、頭がしゃんとしているうちにね。」
「あたしぃ?あたしは重力否定、そんだけよ。」
「重力?」
「重力否定。飛ぶのよ、そう、高く、ああ、そうよ、飛ぶのよ……」
 もはやどっちの「飛ぶ」だかわからなくなってくるような状況に水———もとい、救いの手を差し伸べたのは星号だった。
「いいけど、君ら早く部屋に入ってくれない?俺入れないよ?」
 急かされた野心は大股で部屋の奥まで歩き、パイプ椅子のひとつにどっかと座る。足を組んで手を交差させる頃には同じく星号に指示された僕や品長も椅子に座っていた。
「さて、もう自己紹介も済んだようだけど改めて。彼女が新しく入った夢林檎だよ。彼女には攪乱を担当してもらおうと思ってる。北溶と同じところになるけど、コミュニケーションがとれるなら問題ないと思ってね。」
「攪乱?役割の話かね?」
「ああ、君には役割の話をしてなかったか。」
 星号は今やっと気付いた、という素振りを見せる。そして品長に説明するように頼むと椅子に座ったそのままの姿勢で寝息を立てて寝始めてしまった。いくら何でも自由だ。
「まあ星号がこんなんなのはいつものことや。俺らが説明するけど、ええな?」
「ああ、構わんよ。」
「俺らが集められた目的は知ってるよね?世界が壊れない程度に暴れてやろう、っていう漫然とした目的なんだけど。」
「まあ手順を説明するとやな、世界の中身を見て具体的な目的や目標を決めてから、その目的・目標にあった役割の奴を世界に送り込むんやな。」
「目的や目標は毎回バラバラ。大銀行からお金を山のように盗んでみたり、怪盗紛いのことをしてみたり、ヒーローごっこをしてみたり、本筋の物語に触れないような別の脚本を作って三文芝居を打ってみたり。」
「幼稚言うたら幼稚やな。ま、でも自分のやってみたかったことなんかやると気持ちええで。何せ俺らは何やってやれんのやし。」
「俺らはそのためだけに星号に見出されて、栞を持たされたんだ。当然、全員がバラバラの能力を持ってるし、協力すれば何倍もの力になる。何でもできるよ。」
「俺らがわからへん北溶の言葉をあんたが理解できたんと同じや。むしろあんたはそん為に呼ばれたんかも知らんなあ。」
「まあ、君たちから見ればそう思えるのかも知れないがね、」
 長々とした品長の説明に口を挟む。随分と低く見られたものだ。
「実に心外だよ、僕の能力が言語理解だけだとでも?」
 品長が目を見開き、驚いた表情を見せる。トんでしまったらしい副麻と普段から目線がおかしい北溶は反応する素振りすら見せないが、野心も少しだけ僕を見る。
「能力はどの世界でも1人1つが原則だ。それをお前は破っているとでも言うのか?」
 野心の右目が鋭く刺さる。しかし事実は事実だと言うほかない。
「いや、僕の能力は1つだよ。僕の能力は両腕に2匹の大蛇を呼ぶ、それだけだ。その大蛇の能力が左右で違うというだけの話だよ。」
「能力を持った蛇を呼び出すということか、殆ど反則に近いな。」
「放っておいてくれ給えよ、そんなことより役割についての話の続きを頼めるかい。」
 言われて、あわてて品長が話の切れたところを思い出そうとする。言ってやると、そうだそうだと言いながら続きを話し始めた。
「ほんで、俺ら品長は潜入や他の奴の潜入の手伝いなんかをしとる。」
「能力は……まあ、見た方が早いから、機会が来たら見せるよ。」
「野心はそん図体と体質、能力を生かして囮や誘導なんかやな。盾にもなるで。」
「昔の世界で軍人やってたらしくて、戦闘能力も高いから頼りになるんだよな。」
「北溶の嬢ちゃんは潜入と世界の探査・捕捉や。これは大事な役割なんや。」
「目的に見合った世界を探して捕捉する。そしてその世界に星号がみんなを飛ばすーってのは、さっき説明したっけ?」
「んで、副麻のおばはんなんやけど……」
「副麻は役割が無いんだ。好きなことを好き勝手にしろ、って星号が決めちゃったからさ。」
「何だい、それは。」
 呆れたようにため息をつく。そういえばここに来てからため息ばかりついているような気がする、と気がついてまたため息が出た。
「星号が絶対なんだ、ここではな。」
 顎を上に傾けながら野心が口を挟む。体が大きい分威圧感が増して見える。
「成る程、絶対王政というわけだ。」
「ビックリするほど何もせえへんけどな。」
 品長が独特の引き笑いを見せる。癪には障るが、星号のそれよりは随分ましだった。
「で、僕の役割が———」
「攪乱。ターゲットの中に潜り込んで情報収集したり、騒ぎを起こして他の人が自分の役割をこなせるようにするんだ。」
「ふむ。たとえば、どんなものなのかね。」
「せやなあ。銀行強盗やらすんねやったら、先に行員や客として潜り込んで人質のふりしたり、もちろん寝返って犯人側に付くんもアリや。」
「最初から犯人側として潜り込むのもいいかな。全員犯人だと茶番してるときよりもずっとスリルはあるかもね。」
 ここまで一気に語って、急に品長は黙り込んだ。標準語の方が困ったように眉を下げて笑っている。続きを促すと、関西弁の方がもう嫌だと言わんばかりに頭を振った。
「あー、やっぱあかんわ。説明とかどこをどう見ても俺向きちゃうやん。パス!」
「何だい、最後まで責任を持ち給え。」
 品長(といっても片方だけだが)が机に突っ伏してしまった。もうこれでは話になるまい。
「あーあー。ごめんね、夢林檎ちゃん。」
「構わないが、君が続きを話すことは出来ないのかい?」
「それはできない。俺らはお互いの考えていることなんてわからないんだ。双子どころか血の繋がりすらない、全くの他人だからさ。」
「血の繋がりがない?じゃあどうして君らは二人一組なんだね?」
「うーん、コンビ、って言えば一番近いかな?」
 コンビ、と言われ芸人が真っ先に思い浮かんだ。自分にはおもしろさは全くわからないが、漫才やコントなんかをやる、あれだ。
「そう、たぶんそのコンビで合ってるよ。俺らは元の世界では二人で話芸をやってた。だから息が合うだけで、考えを補完しあったりなんてことはしてないんだ。」
「そうかね。それでは続きは望むべくもないな。」
「習うより慣れろと言うだろう。貴様のシナリオに従ってやるから、まず行ってみたらどうだ。」
 横から野心が口を挟む。いかにも軍人らしいやり方だが、説明が聞けない以上確かにその方法しか残されてはいなかった。
「夢林檎の姉ちゃん、あんたのやりたいことは何や?」
 やりたいこと。そういえばひとつだけ、やってみたいことがあった。
「緻密な大犯罪と、大規模な破壊だ。」
 やれるのなら、やってやろうじゃあないか。